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重清城跡

重清城は、1578年、四国平定のため阿波に侵攻してきた長宗我部元親率いる土佐勢と、阿波方との合戦の地となった場所である。吉野川中流域北岸、河岸段丘上に位置し、西側には船屋谷川、東側に黒谷川、北岸には船屋谷川に注ぐ城ヶ谷がはしる。 
現在残っている遺構として、堀と土塁が城域の東側において最も良好に残り、二重の堀・土塁が現在の道路に沿う形で明瞭に残っている。そのうち、内側の土塁は北側・西側・南側と巡り、部分的に切れているもののほぼ全周、その延長は192mに達する。平面規模は、南北60m、東西44mである。中心部分には、小笠原神社、北東隅には井戸がある。

重清城跡 二重堀

 鎌倉時代、承久の乱後本拠地を池田大西城においた小笠原氏が阿波の支配を強めた。鎌倉時代末期、小笠原長親が重清に入り、重清城を構えた。南北朝時代に入ると、本拠地を勝瑞城においた細川氏が阿波を支配するようになり、小笠原氏は細川氏の家臣となり、三好氏を名乗るようになる。応仁の乱後の戦国時代になると、細川氏にかわって、三好氏が戦国大名として阿波を支配するようになる。

 1578年、長曽我部元親は大西上野助とその従兄弟中鳥城主久米形馬とを手先につかい、重清城を訪問させ、降伏を勧告する和談の途中で、城主小笠原豊後守長政とその子らを謀殺、重清城は落城する。その後、三好存保の反撃により、城は一旦阿波方に戻るが、再度長宗我部が侵攻し、重清城を落とし入れた。

基本情報

住所 美馬市美馬町字城53番地1・2
その他 平成13年12月7日 市指定
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